深田 上 免田 岡原 須恵

幻の邪馬台国・熊襲国 (第8話)

9. 伊勢神宮のご神体・八咫鏡

 先の第4話でも述べたように、アマテラスは、天岩戸の鏡を皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に与え、この鏡を自分の霊代として永遠に祀るよう伝え、それが今の伊勢神宮のご神体、八咫鏡(やたのかがみ)である。
この鏡は、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が鉄で作ったと古事記にはある。鉄で作った、とは不思議である。当時、三世紀初めの倭国(日本)では鏡を作ることは出来ず、すべて中国からの渡来品であった。仮に倭国(日本)で作られたものであるならば、天岩戸の話も、時代はずっと後の時代ということになってしまう。鉄で作った鉄鏡であれば、なおさらである。なぜなら、鉄の融点(溶ける温度)は銅合金よりも700度位高いので鋳造(ちゅうぞう)が銅鏡より難しくなるからである。鋳造とは、金属を溶かして型に流し込み成形する工作法である。

 ご神体であるがゆえに、八咫鏡がどのようなものなのか、明らかにはされていない。ただ、式年遷宮の行事のときは、ご神体(八咫鏡)の入った御樋代(みひしろ)は、舟形をした「御舟代(みふねしろ)」に納められて新宮へ遷(うつ)られる。暗闇の中、足元だけの薄明かりで、これを担ぐ神官が見え隠れする場面だけが放映されるが、これが「仮御樋代(かりみひしろ)」である。伊勢神宮のご神体(御霊代 みたもしろ)のことは、現在、これくらいのことしか分かっていないのである。御樋代などの製作に用いられる用材は、20年に一度の式年遷宮のとき、木曽や信州の山中から切り出され、御木曳(おきひき)されて製材され、「御樋代」(みひしろ)と呼ばれる容器が作られる。木箱の中に納められて秘蔵される。それらの用材を神宮まで運ぶための行事が「御木曳」である。この「御木曳」行事や「御樋代」の大きさにご神体である八咫鏡の謎を解くヒントがある。

 いろいろな憶測がある中で、注目すべきは原田 大六氏の推考である。氏は、先に述べた
伊都国、現在の糸島市にある平原(ひらばる)遺跡の発掘調査を主導し、後に伊都国博物館の初代館長を務められた方である。福岡県糸島市の平原遺跡を中心とした発掘調査をもとに、大学の考古学者と論争を交わされ内容が自著の「邪馬台国論争」で詳しく述べられている。その中で、八咫鏡は大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう)ではないかと推測されている。

大型内行花文鏡
 図31. (左)大型内行花文鏡(直径46.5㎝) 糸島市平原遺跡出土
      (中央)樋代の形状寸法  出典:皇太神宮儀式帳(804年)
    (右)第62回式年遷宮の御樋代木奉曳式と用材 

 その理由を明かす前に、まず、内行花文鏡がどんな文様の鏡なのか、その典型的な鏡を図31左端に示す。内行花文鏡は、このように半円状の弧形が内に向かうように、連環状になった文様が鋳出(いだ)された鏡で、主に中国の後漢時代の年代に作られた。この鏡は、糸島市の平原遺跡から出土したもので、直径が46。5㎝のわが国最大の鏡であり、同じものが5面出土しているが、いずれも割れている。原田 大六氏は、この鏡と同じものが八咫鏡であるとしている。その根拠は、伊勢神宮のご神体である八咫鏡を入れる「御樋代(みひしろ、単に、ひしろ」の寸法にあるという。どういうことなのか、筆者の私見もいれて紹介しよう。

 図31の右端は、伊勢神宮の式年遷宮に関わる行事、「お木曳(おきひき)」行事のうちのご神体を納める御樋代木(みひしろぎ)が川曳(かわびき)されて神宮神域に運び入れている場面で、「御樋代木奉曳式(みひしろぎほうえいしき)」の最後の場面である。
この用材の寸法は、写真の中の人の胴囲からも推測できるが、詳細は、この木(檜)が伐採されたときの行事を報じた新聞記事(2006年5月18日、中日新聞)にある。記事によると、原木は樹齢300年、高さ28mの檜で、直径は70㎝とある。この木から樋代(ひしろ)を作るのであるが、その形状寸法が邪馬台国の会の251回講演会活動記録、「八咫の鏡」で主宰の安本 美典氏から明らかにされた。それが図31の中央の図である。原典は、
804年の皇太神宮儀式帳だそうで、寸法は現在の単位に換算してある。この内径だと、直径64。5㎝の大内行花文鏡も収納できるというわけである。通常の銅鏡は20㎝前後の大きさであるから、八咫鏡もそれ位であれば、直径が70㎝もある大きな木である必要はなく、樋代もそんなに大きくなくてもいいからである。

 八咫鏡は内行花文鏡であるかも知れないという説を後押しするような古鏡の由緒が近年、明らかになった。
八咫鏡の別名は「眞經津鏡(マフツノカガミ)」というが、これに似た名前の鏡が公開された
のである。京都府宮津市にある元伊勢 籠神社(このじんじゃ)の神宝である邊津鏡(へつかかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)の由緒と写真が2000年ぶりに公にされた。籠神社は「元伊勢(もといせ)」の名がつくように、アマテラスが鎮座(ちんざ)場所を探しているとき候補地として立ち寄ったとされる場所である。このような元伊勢の場所については、第14話のアナザーストーリー(3)でも詳しく述べるが、現在、伝承されている場所や神社は86ヶ所にも及ぶ。この籠神社の地も、その一つである。これらの「元伊勢」では必ず「八咫鏡」を祀ったということであるから、この古鏡は伊勢神宮のご神体鏡に近いものであろう。
 図32がその鏡で、やはり内向花文鏡の種類である。由緒ある海部氏(あまべうじ)の宝物として伝承され、秘蔵されてきた伝世鏡の邊津鏡は、約2100年前の前漢時代のものであり、息津鏡は、約2000年前の後漢時代のものである。2000年もの間、人の手に触れられることも、人目に晒(さら)されることもなく、口伝によってのみ伝承されてきた鏡であるから、「手ずれ」が生ずることはないはずである。しかし、右側の息津鏡において、周縁部の櫛形文帯と称される部分の刻み線が所々不明瞭である。この朦朧化は明らかに、溶けた金属が侵入しなかった部分であり、鋳造欠陥と言われる部分である。

籠神社
図32. 元伊勢 籠神社の2000年前からの伝世鏡・邊津鏡と息津鏡

 魏志倭人伝には、倭国(日本)と漢や魏の王朝と交流があったことが記されている。この鏡も、博多湾北部の志賀島から出土した金印と同じように、古代中国と倭国の交流の証であり、天孫降臨が海人の渡来であったことを示唆している。
付言しておくと、後漢時代の息津鏡と同じような内行花文鏡が福岡県からは5面、佐賀県から4面、長崎県の対馬から1面、広島県から1面出土している。邪馬台国の女王卑弥呼はアマテラスであるという研究者もある。そうであれば、卑弥呼の鏡「銅鏡百枚」の中に「内行花文鏡」があってもおかしくない。邪馬台国時代に持ち込まれた漢や魏や晋時代の鏡は他にもあることは、先の第4話の図12に示した。

<つづく>  
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